女性でこれくらいの年齢の子がいるということは
戦前という時代背景を考えると
私より年下なのではないかと思いますが・・・
いくら綺麗で品があってもやはり無理感はありましたね
サユリストの方が見たらまた違うのでしょうけれど(笑)
母べえはふたりの娘を抱え臨時教師をしながら
そして父べえの教え子である山ちゃんの助けを借りながら
動乱の時代の中夫の帰りを待ち続けます
私は「正義」とか「真実」は本当に正しいことなのかと思うことがあります
自分が思う、間違っていることを許せないのはいいことなのでしょうか
誰だって戦争はしたくない、平和がいいと思っている
だけど家族を守るため、食べていくために
みんなが真実を心の中に留めて暮らしているだけなのです
なのに、自分は間違っていない
正しいと信念を曲げない父べえ
多くの人は警察や、恩師や、母べえの父親に対して
嫌悪感を抱くのでしょう
でも私は違いました
正しい思想を貫くよりも
今は家族を大切にしなさいと、そう言ってるだけなのです
自分の考えより、まずは妻や子どもを守るべきだと伝えているのです
みんな、我慢をしているのだよ
悪いたとえですけれど
もし女性に「ブスでデブで見るに堪えないな」
なんて言ったらどうでしょう
やはり「正しいことを言った」「俺は間違っていない」と
言い切るのでしょうか
正直が人を傷つける、苦しめるときもあるのです
言葉に出さなくてもいいときもあるのです
そして、まだ女ざかりで子どもを抱えた女性が
たったひとりで苦労しているとなると男性も寄ってくるでしょう
人生経験を積んだ人間はそれをわかってる
ヒロインを思ってのこと、意地悪ではありません
山ちゃんは自分の恩師の妻であることからその欲望を抑えた
寅さんを思わせる、山田監督らしいプラトニック
山ちゃんこそが、実は「男」だったのです
やがて、時代は変わり女性も自立しました
そして「父べえに会いたい」と言い残す母べえ
母べえにとっては、自らを犠牲にするほど
父べいは理想の人だったのでしょう
小百合さんと同じく品のいい作品でしたね
でも、悪役的存在の言い分にも耳を傾ける価値はあると思います
【解説】allcinemaより
黒澤明作品のスクリプターとして知られる野上照代の自伝的小説『父へのレクイエム』(改題『母べえ』)を、「男はつらいよ」「武士の一分」の山田洋次監督が吉永小百合を主演に迎えて映画化した感動の反戦ヒューマン・ドラマ。ある日突然夫が治安維持法で投獄されてしまうという苦境の中で、夫を信じ続け、つつましくも気高き信念を失わず、残された2人の娘を守るため懸命に生きた一人の女性の姿を描く。
昭和15年の東京。野上佳代は、愛する夫・滋と2人の娘、長女の初子と次女の照美と共に、つましいながらも幸せな毎日を送っていた。互いに“父(とう)べえ”“母(かあ)べえ”“初べえ”“照べえ”と呼び合い、笑いの絶えない野上家だったが、ある日、突然の悲劇が一家を襲う。文学者である滋が、反戦を唱えたことを理由に特高刑事に逮捕されてしまったのだ。穏やかだった生活は一変し、不安と悲しみを募らせる母と娘たち。そんな中、滋のかつての教え子・山崎や滋の妹・久子、放埒で型破りな叔父・仙吉らが一家のもとに駆けつけ、佳代と娘たちを優しく親身に支えていく。
昭和15年の東京。野上佳代は、愛する夫・滋と2人の娘、長女の初子と次女の照美と共に、つましいながらも幸せな毎日を送っていた。互いに“父(とう)べえ”“母(かあ)べえ”“初べえ”“照べえ”と呼び合い、笑いの絶えない野上家だったが、ある日、突然の悲劇が一家を襲う。文学者である滋が、反戦を唱えたことを理由に特高刑事に逮捕されてしまったのだ。穏やかだった生活は一変し、不安と悲しみを募らせる母と娘たち。そんな中、滋のかつての教え子・山崎や滋の妹・久子、放埒で型破りな叔父・仙吉らが一家のもとに駆けつけ、佳代と娘たちを優しく親身に支えていく。
吉永小百合は外見もそうだが、声も癒し系だなあと感じた。
母べえの戦後は描かれていないがどうだったのだろうか?と思いをはせてしまった。
愛する人たちを失ってから生き抜いた戦後、という意味で不幸せとも感じる一方、2人の子供たちは立派に成長したということでは幸せな人生だったのかなあとも感じた(戦後も色々な人に助けられて生きていたのではとそうぞうできる)。
この時代に、信念を貫く事がどれだけ困難な事であっただろうか。
父べえの決して砕けない思想。それを享受する家族と生徒の揺るがない心。
登場人物其々が己の信念を持っていて、美しい。
それと対照的に、母べえの父親を始めとする、当時の警察の浅ましさ、愚かさ、人間性の無さが強く描かれているのも、これまでの山田作品には無かった要素かも。
旅館の1シーンで不意に聞こえてきた警官共の低俗な笑い声。
不遇な時代を生きる人達を嘲る様な醜い声に聞こえた。
山田洋次は終戦の頃中学生。恐らく、自らの体験も何処かしら鏤められているかもしれない。
吉永の演技は全く機械的で表情が無い。それに比べて浅野や鶴瓶は芸達者。あと娘の描写は成瀬巳喜男を意識してるようだが全然パンチが足りない。なんだか重要な役者が概ね訴求力に欠ける演技だったのは致し方ないというか残念でしたね。死ぬまで夫を追い続けた母べえの情念の描き方は邦画特有の凄味というか、全体主義への反発心が物凄いのは山田が根っからの共産分子である事の主張と相俟って鮮烈だった。
奥行きのない陰影の薄い平板な絵作りと、カメラ目線が気になる子役、
そして静止画専門が相応しい吉永小百合など、腹立たしさがジワジワと
こみ上げてきたので、体調の良い時に再見しようとストップしました。
数々の山田監督作品で多いに感動した思いが有ったので、
粗雑さが余りにも気になった次第です。
山田監督の、弱者に対する心からの優しさは充分わかってます。
思想的にはかなりの隔たりはあるものの、庶民の哀歓をこれほど
あざとくなく、巧みに表現出来る監督は、昔も今もそうはいない。
全部見ないで批判してすみません。全部見たら嫌いになるのが
怖かった・・・てか。
「戦争はおかしい」という事を書くだけで、投獄され偏向を強要される、不条理。今の、北○鮮の独裁体制と全く同じ状態です。
戦後、思想・信条の自由が基本的人権として、憲法に明記されるようになり、今では誰でも自分の考えや信条を自由に発言・発表することが出来ます。本当に、その存在が意識にすら上らないような、空気のような自由。
この空気のような自由が手に入らなくなったときに初めて、その辛さ・苦しさが実感できるのではないでしょうか?
自由の有難さ、反戦・平和主義の日本国憲法のすばらしさを改めて認識させられます。
徴兵にとられることはあっても、表面的に偏向して戦争に賛成し、家庭を守り、生き永らえた方が良かったのではないか?という考え方もあるでしょう。
しかし、そうして考えを曲げて戦争へ協力することが、自分の生き方、生きる意味を否定するものであるとき、人間は命をかけても譲れない一線に気づく場合もあるのではないでしょうか?
野上佳代の父の苦悩もわかります。滋の恩師も表立っては協力的に出来ない事情もあるでしょう。野上の家族も「非国民」として差別的に扱われてきたことは十二分に推察できます。
戦争は、国民が望んだものではなく、軍部や政府が推し進めたものに違いは無いでしょうが、それを止めることが出来なかったのはなぜか?もっと良く考えることは出来なかったのか? 国民一人ひとりに出来ることはなかったのか?マスコミはどうであったのか? そういったことを考えさせられる映画でした。
マジなコメントになってしまいましたが、この映画の重要なテーマであると思い、あえて書かせて頂きました。
ただの家族愛や、母のすばらしさを語るだけの映画ではないと思います。
そして家族、好きな人同士が一緒に暮らせる素晴らしさ。それを実感させられました。とても良い映画でした。
今日は映画を観てから、半日しみじみしていましたねぇ。
映画館という公衆的な空間は貴方一人のものではありません。そもそも三席隣の人の動作が気になるなどということがありえるのでしょうか。
仮にその人に非があったとしても、意図的なものではないはずです。
しかし、あなたがポップコーンのカップをその人にぶつけた行為は明らかに意図的で悪質な行為だと個人的には思います。
口頭で注意するという選択肢もあったはずです。
たいしたことではないのかもしれませんが、私的にはとても不愉快でした。
しかもコメントを遡って読んだら、私の親と同じぐらいの年齢の人だとわかり、さらに不愉快になりました。
この作品も美術が素晴らしく、殆どのシーンがセットで撮影されていることは観れば分かるが、観ているうちに作り物だということが気にならなくなる。加えて山田洋次監督の衰えを知らぬ巧みな演出で、2時間を越える超尺を少しも飽きさせない(「おなかすいた」という何気ないセリフでさえ効果的に使われている)
ただ、晩年の母べえのシーンには疑問を感じる。ここだけロケで撮られたから、という以上に作品の雰囲気そのものが一気に変わり、今までのは何だったんだという感じだ。要するに母べえのあの最後の一言を言わせたかったのだろうが、それならナレーションで十分だ。はっきり言って、ここは要らない。美術教師になった次女が、戦中派のわりに若過ぎるのも配役ミスでは?
吉永小百合は相変わらず魅力的で独自の空気を持っているが、「青春の門」「天国の駅」「北の零年」で母親役・人妻役は経験済みだし、満を持しての新作だろうが、新境地開拓とはいかなかったように思う。
「武士の一分」に続き、セリフのみで動きが殆ど無く出番も少ないのに、坂東三津五郎の存在感は圧倒的である。
山田監督よりひとつ上の1930年生まれであるイーストウッドやゴダール(リチャード・ドナーもね)が死んだら「映画」が死ぬのであれば、山田洋次が死んだら(失礼!)日本映画は死ななくても、戦前松竹からの伝統である大船調の灯が消えるのは間違いないのですから、日本の映画ファンは真面目にそれを受け止め、今後襟を正してその終焉を見守らなければならないでしょう。
確かに相変わらず無知な人は登場しますが悪人が出て来ない作りと、吉永小百合の母べえを観客に委ね過ぎているところが歯痒くもあり、ああまたか・・なのですが、作品全体を漂う山田洋次の思惑が絶妙なバランスのまま映画の中で見え隠れしているので、それらがチラリと垣間見える瞬間だけでもかなりスリリングな体験を味合わせてくれます。
大滝のおじいちゃんが言う「不合理なことに無神経でなければ生きていけない世の中なんじゃ」という台詞が象徴するように、この映画が誰に向かって作られているかは明白なのですが、「母もの」を装いながら、今現在生きている時代に対し忠実であり続ける作品を撮る。そして、小百合ちゃんの映画を観に来た観客もしっかりと泣かせて帰る。やはりこれは極めて高度な映画だと言えます。
また、ルックが少し明るく、セットが小綺麗な部分はありますが、山田組の方々の奮闘が刻まれているのは間違いなく、長沼六男のデリケートなカメラなどはやはりこの時代本当に貴重。映画を作っているんだという想いが画面に溢れ出ており、日本映画が後世に残さねばならないものが確かにここには存在しています。
ただ、少し気になったのは、野上家の郵便ポストにローマ字で「NOGAMI」と記されていた点です。戦時に入ってもそれはそのままでしたが、戦争中ここら辺は許されていたのでしょうか。
省略の在り方やイマジネーションを否定する分かり易さ、ナレーションの不統一、そして吉永の演技(檀れいに「おばさん案外鈍いんですね」と言われた時の演技。トホホ・・・)に不満がないではないですが、画面の左右で、常に一家を圧迫している「襖」に時代を象徴させている演出はさすが。明らかに山田監督は作家として新しい鉱脈(作家としてのモチベーション)を見つけたようなので、これからその世界を更に深化させていって欲しい。ロハスではない昭和風俗・戦時日本のリアリティを見てみたい。松竹はこのラインを大事にするように。
キャストは浅野が特に好演。たぶん初めての山田組ですが見事に溶け込んでおり、彼がいなければ映画がもたなかったのではと思えるほど。檀れいは最後のクレジットまで誰だか分からず、志田ちゃんは泣き顔がいい(ゴメンね)。最近やたら見る鶴瓶はやはりこれも好演。志田ちゃんに「おっぱい膨らんだ?」のセクハラ発言で泣かせちゃうシーンはマジでムカッとしました。そして主人公照べえを演じた佐藤未来ちゃん。コロッケをいただくとこが実に可愛いかったです。涙より食い気。さすが黒澤組です。
「悪法でも無法よりはまし」(by鈴木瑞穂)という台詞も出てきますが、この言葉の意味は極めて重い。過去を見ることは現在をみること。そして人の営みが不変であるならば、やはりこの映画から学ぶべきことは多い。「母もの」の姿を纏った大船調社会派映画、そしてそれが新しい何かに到達しようとしている。秀作だと思います。
補足:(↓のLongislandさんじゃないが、確かにオバサンたちマナー悪過ぎ!着信音は当たり前。一度ならず四六時中ケータイはパカパカ、閉じててもマナーモードでブーブー鳴らしまくり。しかも大事な場面に限ってやってる。だから普段映画観ない人が来る映画観るのは嫌なんだよ。特に私の三つ隣のオバサン!特高室や泣きどころの電報のシーンでもパカパカやってたからいい加減に頭来て食べ終わってたポップコーンのカップを丸めて軽く爆撃してやった。見事命中。ワレキシュウニセイコウセリ。
上映終了後、凄い目で睨んでいたけど悪いのはアンタなの!あと、そのゴミはちゃんと拾ってゴミ箱に捨てましたよ!まったくもう)
俗受けを狙ったとされるレベルの低いあざとい笑いや演出はともかくとして、しかしながら、いくらなんでもあの不自然な現代編はないでしょうが。観客を馬鹿にし過ぎというか、根本から舐めてるんだねこの人は。
山田にしては珍しく教条主義的な反戦映画ではないところが、せめてもの救いと言える。
母と一緒に、「母べえ」を鑑賞してきました。
映画館に入って見渡したところ、母と同年代か、それ以上の世代の方が多く、
恐らく、その上演回においては、私が最年少だったのではないか・・と思います。
私の右に、座られていた女性の方は、途中から、ずっと、
すすり泣いていらっしゃいました。
左側の母は、静かでしたが、映画が終わった後、涙で、眼が赤くなり、
くしゃくしゃになっていました。
「時間をさいて、映画館まで足を運んだ甲斐があった・・観て本当に良かった・・
とても心を打つ映画だった・・思い出に残るお誕生日を、ありがとう・・」と、
本当に喜んでくれて、嬉しく思いました。
その後、ランチを頂きながら、映画について語り合いました。
「母べえ」のお陰で、素晴らしいひとときを過ごすことができました。
吉永小百合さんの、凛とした母としての姿勢・・
モンペ姿の、質素な装いでも、美しいのですから・・!!
きっと、それは、内面から溢れ出る、穏やかで、温かく、
慈愛に満ちた女性としての品格や知性・・が、
オーラとして、心に響くからでしょう。
逆境や苦境のなかにあって、
取り乱すことなく、理性と、優しさと、
<笑顔>を持てる女性こそが、
真に、精神の<強い女性>だと思うのです。
悲惨な状況にあっても、
けなげな、その母べえの芯の強さ、精神の逞しさが、
子供たちから、笑顔を奪うことなく、愛情に満ちた明るい家庭をつくり・・
母性愛で、子供たちの心は、安らぎ、癒されたことでしょう・・。
母べえの人柄が、周りの人たちの心を惹きつけて、
みんなから助けられ、人の集う(山ちゃんや久子叔母さんや奈良のおじさんなど)
つつましくも、団欒のある家庭を、築いていけたのだと思います。
家も装飾品のない、簡素な佇まいですが、清潔に保たれていて、
箪笥の引き出しの中や部屋は、きちんと整理整頓されていて、
母べえの生き様を、映し出しているようでした。
夫を心から、尊敬し、信頼し、
それはまた、夫も同じ想いで、夫婦愛の絆の深さ、
家族愛の素晴らしさを感じました。
母べえは、同じ女性として、時代は違いますが、
日本女性が忘れてはならない精神や美徳を持った、
見習うべきところの多い理想のひと・・でしょう・・☆
山ちゃんの見返りを期待しない純粋な想いにも、
胸が熱くなりました。
楽天家の奈良のおじさんは、ただ、家にいるだけで、
なんとなく心強く感じられました。
悪役のように映っていた、母べえの父の想いも理解できました。
私は、その当時を生きていないので、推測なのですが、
心から戦争をしたいと思っていた人は、いなかったと思うのです。
誰しも、愛する夫や息子や恋人などを、戦争に送り出したくはなかったはずです。
本心は、声を大にして、戦争の犠牲になりたくないと言いたかったはずです・・が、
治安維持法などで抑圧され、
そのように安易に、口に出すことは、絶対許されない世情だったのでしょう。
母べえの父が、
「どんな立派な主義主張があっても、
家族を守っていけない人間が、国を守ることができるのか・・・?」
と、言っていました。
なんとか、父べえを家族の元に帰すように、祖父なりに、努力してくれますが、
母べえは、祖父への気遣いから、それを受け付けません。
確かに、今の時代となっては、
もちろん、父べえの主義・主張は、立派で正しいことですが、
獄中で死んでしまっては、何にもなりません。
家族も国も、救うことはできません。
国中が狂っていた時代ですから、風潮を見ながら、時機を待ち、
他の手立てを考えることは、難しかったのでしょうか・・?
まずは、身近にいる子供たちや妻のことを、もう少し考えて、
慎重に行動するのは、やはり無理だったのでしょうか・・?
母べえの、
「あの世で逢うのは、嫌・・生きている間に父べえに逢いたかった」
という言葉には、
生きていてほしかったという想いが、強く込められていました。
エンドロールで、父べえが、母べえに宛てた手紙には、
涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。
父べえの戦争に対する真の怒りが、静かに伝わってきました。
初べえと照べえは、心から両親を尊敬し、
貧しく、裕福でなくても、家族の絆や愛情を深く感じて、
立派に成長したところが、せめてもの救いでした。
二度と繰り返してはならない日本の歴史ですね・・。
お歳を召した吉永小百合の経年劣化(老い)を隠すためか、映像は終始引き気味でじれったい。浅野忠信が密かに恋心を抱く恩師妻ってのは無理がありすぎる、無理といえばラストの特殊メイクも中途半端。
監督もスタッフも吉永小百合の亡霊に振り回された感が否めない凡作。
とはいえ平日午後のシネパレスはシニア層ご夫婦で満員。
ただね~、おじいちゃん、おばあちゃんは映画途中でお話が五月蝿いだよね、映画館は自宅居間じゃないんだよね(苦笑
物語は淡々と流れる。家族4人の生活が、学者である父・野上滋(坂東三津五郎)が思想犯として逮捕されたところから大きく変わる。しかし母・佳代(吉永小百合)は働きながら必死で家庭を守り、夫の帰りを待つ。家族を助ける滋のかつての教え子山崎徹(浅野忠信)の淡い思い、変わり者の叔父(笑福亭鶴瓶)、滋の妹久子(檀れい)らに支えられるが、やがて家族に悲報がもたらされる…。
激しい戦闘やドラマチックな展開がそこにあるわけではない。小さな家族の小さな営み、そんなささやかな生活を破壊していく「戦時」の見えざる狂気が端正に描かれている。
黒澤明作品のスクリプターとして知られる野上照代の自伝的作品に基づいているだけあって、過度の虚飾を避け、家族(卓袱台)にスポットをあてて描いている点は寧ろ好感が持てる。
故黒木監督の一歳年下である山田洋次監督にとっても、銃後の家庭は違和感なく描くことのできる世界だったのではないだろうか。
思想犯で逮捕者を出した家庭に対しても情けをかけてくれる人もあっただろうし、逆に冷たくあたる人もあったろう。涙ももちろんあっただろうが、笑いもそこにはあったはずだ。そんな等身大の家庭が描かれている。
俳優陣はみな好演。浅野忠信も良かった。吉永小百合は、もう少し肩の力を抜いてもいいように思う。どこまでも言葉が美しいことによって、逆にリアリティを欠いてしまうこともあるのだから。
ラストの現代編(といっても1980年頃の設定か)は、私も少々違和感を感じた。無理に現代に戻る必要はなかったように思う。ナレーション処理でもよかったのでは?
相変わらず冨田勲の音楽にも参った。静かな静かな、そして小さな小さなある家族の物語。山田洋次監督の思いが込められた佳作だと思う。
判でもない。家族を描いた作品となるのだが、そこに大きな深さはなく大きな
感動も涙もない。同時期、東映の「茶々」の方が見応えがあるだろう。
浅野忠信が一番いい演技をしていて印象深い。妹役の野上久子、娘役の志田未
来、佐藤未来、他、笑福亭鶴瓶、坂東三津五郎、みんなすごくいい演技をして
いる。元気な大滝秀治を見れるのもうれしい。だが妹が大きくなった年齢を演
じている戸田恵子と医師の倍賞千恵子はなーんか違和感があった。
主演の吉永小百合は今までの作品どおりの演技、表情をしている。これが問題
と感じた。「千年の恋 ひかる源氏物語」まではそれで良かったのだ。見終
わったあと観客は「やっぱり吉永小百合きれいだったね」ということだ。とこ
ろが「北の零年」からそれは変わった。「やっぱり吉永小百合きれいだった
ね」と言えない年齢に達してしまったからだ。
「母べぇ」の吉永小百合より「かあちゃん」の岸恵子がどれだけすばらしかっ
たか。岩下志摩は今でも年齢を感じない演技を見せてくれる。富司純子は作品
になかなか恵まれないが「フラガール」などそれぞれの作品で存在感ある演技
を見せてくれる。
吉永小百合は今まできっとある範囲内での演技で自分を魅せることをしてきた
のだろうが、それではもう観客を魅了できない年齢になってしまったというこ
と、つまり今までの吉永小百合の演技は年齢に助けられてきたものだったとい
うことなのだと思う。
「北の零年」「母べぇ」と2作続けてそういう作品となったということは、こ
の機会に吉永小百合は今一度、新しい吉永小百合を作り上げないといけないの
だろう。それには監督や撮影、カメラの力を借りるのも1案だろう。その中で
もう1度日本の映画界のトップ女優の1人である吉永小百合を復活して欲しい
と思う。「やっぱり吉永小百合きれいだったね」は捨て去り「吉永小百合いい
演技だったよね」になって欲しい。