原題も「خانه دوست کجاست ؟」(友だちの家はどこですか?)
友だちの宿題ノートを間違えて持ち帰ってしまった少年が
ノートを返すため友だちの家を探しにいくという
ただそれだけのシンプルなストーリー
「イランの小津」と呼ばれているだけあって
子どもの描き方がうまい
大人たちの姿は昭和の親父とも重なります
子どもの頃の、先生や親に対する理不尽な思いと
親になってからの、ちゃんと子どもの話を聞いていたかという
複雑な気持ち
でも最後の10秒で救われます
映画史に残ると言っていい素敵なラスト
イラン北部コケル村の小学校
アハマッドの隣の席のモハマッド・レダ・ネマツァデは
ノートに代わりに紙切れに書いてきた宿題を出します
先生は理由を尋ねることなくモハマッド・レダを叱り
今度が3回目だ、次にノートを忘れたら退学だと宣言します
アハマッドが家に帰り宿題をやろうとすると
鞄の中には自分のノートとモハマッド・レダのノート
モハマッド・レダのノートを一緒に持ち帰ってしまったのです
早く返しにいかないと彼が退学になっちゃう
だけど母親は友だちの所に遊びに行きたいのだろうと
「宿題が先」「赤ちゃんにミルク」
「ゆりかごを揺らして」「パンを買いに行って」と
いくら事情を説明してもわかってくれません
アハマッドはノートを持ち、隙をみて
モハマッド・レダの家のあるポシュテという村まで走ります
でも誰もモハマッド・レダもネマツァデの家も知らない
偶然クラスメイトのモルテザに会うと
ハネヴァル区に住む従弟の家なら知ってると教えてくれます
ハネヴァル区に着くとモハマッド・レダのと似たズボンがかかっていました
でもおばさんはネマツァデは知らない、これは孫のだと答えます
モルテザから聞いた従弟の家と思われるドアをノックすると
近所の住民が「ついさっきコケルへ行ったよ」
「見えるだろ」と遠い坂道の下の人影を指さします
えー、コケルから来たのに(笑)
大急ぎで来た道を戻るアハマッド、すると祖父に見つかり
友だちにノートを返すためポシュテに言ったことを伝えると
祖父は家から煙草を取ってくるよう命令します
しかし祖父は煙草をもっていて、友人にこれは「しつけ」だ
「小遣いをもらったことは忘れても、げんこつをもらったことは忘れない」
と説明します
アハマッドが「タバコはなかった」と戻ってくると
修理にやって来たドア職人が請求書を渡したいので
アハマッドが持っているノートを1枚くれと言います
いくら「友だちのノートだから」「先生に怒られる」と断ってもだめ
男はノートを取り上げ1枚破り請求書を書きます
しかしそのことで男の名前がネマツァデだとわかり
アハマッドは「ネマツァデさんですか」と何度も聞きますが
男は無視しロバに乗って去ってしまいます
男とロバを追い再びポシュテに走るアハマッド
が男の息子はモハマッド・レダではありませんでした
僕はネマツァデだけどハネヴァル区に「ネマツァデ」はたくさんいる
たぶん鍛冶屋の近くの家だと教えてくれます
鍛冶屋を探しているとやがて日は暮れ
アハマッドに気付いた老人は、さっきまでネマツァデは家にいた
家まで案内しようと言います
ここからおじいちゃんのドアと窓枠の話が延々と続く(笑)
そのうえ歩くのが遅いし、休憩して顔を洗い、花を摘み
夜は更けアハマッドはちょっとイライラ
しかもおじいちゃんの教えてくれた家は
モハマッド・レダの家じゃなかった
でもおじいちゃんに言えなかった
お腹にノートを隠し、パンを買いにいかなきゃと説明します
おじいちゃんは「もうパン屋は閉まっている時間だ」と言うけど
急いで帰らないと怒られる
でも犬の鳴き声が怖くて結局おじいちゃんを待つ(笑)
ノートを返せなかったアハマッドは落ち込んでいます
お父さんにも相当叱られたのでしょう、食事も喉を通らない
ひとり真夜中に宿題を始めます
そっと食事を置いて「終わったら電気を消して寝なさい」と
声をかけるお母さん
でも相当疲れたのでしょうね(笑)
翌朝、教室にアハマッドの姿はありません
紙切れに書いた宿題を出してうつ伏せるモハマッド・レダ
先生が後ろの席から順に宿題をチェックしている
もうだめだ・・
その時アハマッドが遅刻してやって来る
宿題を済ませてきたよ
「よろしい」とモハマッド・レダのノートに丸をつける先生
この映画の素晴らしいところは
幼いながら世の中のどうにもならないことに立ち向かい
自分で解決策を見つけるというところですね
それも自分のためじゃない
友だちを助けるため
イラン映画は厳しい検閲があることで有名ですが
体制批判的でありながら、あえてそれをうまく利用したというか(笑)
「規則を遵守する精神を教えるため」
「理由がなくても殴る、そうやってよくしつける」
「大人の言うことはだまって聞け」という精神論を前面に出している
抵抗したいけれど、親や目上の人を尊ぶことのほうを選ぶ子どもたち
そんな中にも「人情」や「やさしさ」はある
それを一輪の花で表現する巧さよ
ひとつひとつのショットが美しく、本当に善い映画
「お気に入り」を献上いたします
【解説】淀川長治の銀幕旅行より
「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」 ともにイラン映画で監督は同じアッバス・キアロスタミ。イランがどこにあるのか調べるといい。各国各地の映画が訪れて“人間”は同じということを知る。これほど平和を生むものは他にはない。
「友だちのうちはどこ?」はイランの北の田舎の小学校。まず先生がよろしい。太ったオッサンがやっこらさと教室に来て上着を脱いで「お前ら宿題をしてきたか」という調子。一目でこの50歳くらいの教師が好きになる。みんなのノートを見る。すると一人の子のノートがない。先生、じっくりと叱(しか)りつける。その子、泣きそう。さてその隣の席の男の子が家に帰って自分のかばんを開けると、あのノートがなくて叱られた同級生のノートが自分のかばんの中に。びっくりしてこの少年がその友だちの家を探す。これがこの映画。
思わず画面に見とれるのは、この少年の家、この家の庭で宿題をノートに書くこの少年。すべてキャメラはドキュメント・タッチ。本当にこの監督はここの村人を使って撮影。井戸端で女たちが洗濯。「オーケー、ただしもう一度、今度は本番」。すると女たちは「もう洗濯したじゃないか」とぼやく、まったくの撮影知らず。
ところでこの友人の家探しが見るも素晴らしい。行けど探せどその家、見つからぬのだ。村の人に聞くと「あちらじゃ」「こちらじゃ」、少年はぐったり。その道、その家、その人がいいのだ。“人”が生きている。本物なのだ。
このあと3年、この監督、今度は地震で崩れたこの村の家を、パパの運転で子供があちこち探し回るというそのロード・ピクチュアが「そして人生はつづく」。崩れた石の塊の下の家の屋根を「友はどこ」「知人はどこ」と探すパパと子。途中疲れてコークを買う。店の人はいない。ゼニをそこに置いてゆく。イランの太陽が目にしみ、風がほほをなでる。映画とは本当、これなんだ。まだ汚れないこの撮影。そして人間がここに生きている。涙がこぼれた。