原題も「Journal d'un cure de campagne」(田舎司祭の日記)
マーティン・スコセッシの「タクシードライバー」に
影響を与えた作品として有名
ベルイマンが「神とは何か」「神の不在」への思索を展開するならば
ブレッソンは「神」や「信仰」より「人間の弱さ」に
スポットを当てている気がします
北フランスのアンブリクールという小さな田舎町に
神学校を出て初めて司祭として赴任した若くて純真な司祭は
日記(ナレーション)という形で
村での出来事を記録として綴っていくことにします
しかしインテリ風な司祭は、村民たちに受け入れられず
寄付も集まらず、村長は住まいに電気も引いてくれない
少女たちに聖書を教える教義では
若くてハンサムな司祭に興味津々
そのなかでも特にリーダー格で頭のいいセラフィータは
意地悪な質問をしたり、異様な眼差しで見つめたり
司祭を惑わせます
毎朝ミサに来てくれている女性には感謝をしていましたが
領主の娘の家庭教師の彼女は、領主と不倫していました
領主の妻は幼い息子の死が原因で臥せており
娘のシャンタルはかなり曲者
布教と善行に励もうと初々しく輝いていた司祭の
胃の調子は悪化し、食欲は失せ
唯一食べれるのは赤ワインに浸したパンと、わずかな果物だけ
(ワインとパンはキリストの血と肉と考えられている)
しかもいくら神に祈ったところで
体調はよくならないし、不倫問題も解決しない
村人たちには悪評を噂され
相談相手のデルベンデ博士は死んでしまう(自殺と思われる)
苦悩を抱えたまま、ついに倒れ
医者の下した診断は「胃がん」でした
そこで「結核じゃなかったのか」って
アンタ自分が結核だと思って、悲劇の主人公になっていたんかい(笑)
(当時は結核で亡くなる人のほうが多かったのだろう)
やがて病気とアルコール依存症のせいで
日記の文字は乱れていき、文章は線で消され、ページは破かれる
(私もアル中だからわかる←何度ブログ記事をだめにしたか←一緒にするな笑)
でもいくら日記を破り捨てても現実は消えない
ブレッソンはその事実を今度は映像だけで見せつける
唯一司祭が笑顔を見せ、解放されたのは
シャンタルの従弟で外人部隊のオリヴィエに
バイクの後ろに乗せてもらい駅まで送ってもらうシーン
スピードと頬に当たる風
その一瞬だけ、司祭はひとりの普通の若者に戻れたのです
そして聖書の授業で悪戯の首謀者だったセラフィータ
彼女の捻くれた性格が彼女の家庭環境にあり
本当は優しい子で、倒れた司祭を介抱し
「あなたは悪くない」と理解を示すシーンは聖母の姿のようで感動的
もうひとり、女ができて神学校を辞めた友人との再会
信仰を失った彼を軽蔑していた司祭は
薬剤師として忙しく働きながらも、愛し合い幸せそうなふたりに
今まで信じてきた神への愛と、現実の愛は違うと気付く
素朴で質素だと思っていた人々のほうが邪道で
悪魔に身を売ったと疑っていた人間のほうが
天使だった
結局自分の本心も、人々を見下し、憎み
邪悪だったことを知る
「すべては神の聖寵(せいちょう)である」
司祭が悟りを開いたとき、それは彼が死を迎える時でした
彼の眼差しの先に見えたのは、神の姿だったのでしょうか
ひたすら辛いことの連続で、ただ寂しく終わってしまう人生
だけど美しい
宗教観にはあまり囚われず
ブレッソンの虚無美を堪能してほしいと思います
【解説】映画.COMより「バルタザールどこへ行く」「スリ」など数々の名作を生んだフランスのロベール・ブレッソン監督が、1951年に手がけた長編第3作。カトリック作家ジョルジュ・ベルナノスの同名小説を原作に、聖と俗の間で葛藤する若き司祭を静謐なタッチで描き出す。北フランスの寒村に赴任した若い司祭は、身体の不調を自覚しながらも、村人たちの悩みを聞き布教と善行に励む日々を送っていた。しかし、彼の純粋な信仰への思いは村人たちとの間に次第に溝を生じさせ、事態は思わぬ方向へと展開していく。キャストには素人を起用し、音楽やカメラの動きなども含めた“演出”を削ぎ落としていく手法で、ブレッソン独自のスタイル「シネマトグラフ」を確立した作品。日本では製作から70年にわたり劇場未公開だったが、2021年6月に4Kデジタルリマスター版で劇場初公開となった。