スワンの恋(1983)


「胸元のカトレアを直しても良いですか?
 匂いを嗅いでも良いです?」
 
 
プルーストの「失われた時を求めて」の中から「スワン氏の物語の映画化
下記のallcinemaさんの解説で扱き下ろされているのは
ブリキの太鼓」(1979)シュレンドルフ監督
 
私は良かったと思いますよ(笑)
それどころか時間が経つにつれ、いろいろと思いに耽れる
文学って表現が遠回しすぎてわかりにくいけど、そこが魅力
 

本物の恋をしたときはスワンのように嫉妬に燃え
恋に取り憑かれすぎるが故に自分勝手になってしまう
今なら一歩間違えば犯罪者
 
だけどあれほど恋焦がれたのに
年月が経つと、愛情も覇気もなくなっていき
あの頃の異常なほどの熱い思いはどこに行ったのかと思い返す
 
そんなに夢中になるほど、いい女だったか?
それどころか最初からタイプでもなんでもなかったはず
 

19世紀パリ社交界
貴族やブルジョワは、夜な夜なサロンを開いて社交に励んでました
スワンはフランス上流社交界に出入りする裕福なユダヤ人絵画研究家
社交界の有名人で大統領官邸での昼食会に招かれるほどでした
 
そんな一流の紳士がヴェルデュラン夫人の夜会に現れます
そして高級娼婦のオデットと知合い、やがてのめり込んでいくのです
 

スワンとオデットはすでに肉体関係にありましたが
オデットにとってスワンは顧客のひとりだったのでしょう
スワンは伯爵に嫉妬し、噂に心は乱れ翻弄されてしまい
親友のシャルリュス男爵からあれこれオデットの情報をうかがう始末(笑)
 
ゲルマント公爵の家での音楽界の後オデットを迎えに行くスワン
彼女はフォルシュヴィル子爵と共に現われ
さらに家まで送っていくと女衒(げぜん)と思われる女性が待っていました
 

今度はオデットが女性とも関係していたのかと気になってしょうがない
もはやオデットの言動だけではなく
自分が作り出した幻影に苦しむようになるのです
 
あれまで上品だった紳士が、オデットの家に忍び込んだり
最後には「あの女を殺したい」とまで言い出して
完全なストーカー状態
それに真夜中でも付き合わされる侍従たちがまた気の毒(笑)
 
 
それから十数年、馬車が行き交っていたパリの街は
車が排気ガスを撒き散らしながら走る時代へと変わりました
 
オデットはスワン夫人になり、今でも若く意気揚々と街を歩き
一方のスワンは生気を欠き、世間の目を気にするあまり
自分の娘も人に紹介できずにいたのです
 
オデット(オルネラ・ムーティ)は娼婦
シャルリュス男爵アラン・ドロンは男色家
ヴェルデュラン夫人(マリー・クリスチーヌ・バロースノッブ
主要人物だれもが差別される側
 
しかも同性愛者と知れたら逮捕されるような時代に
シャルリュス男爵の口をかりて、社交界の人間たちの
愚劣きわまる低俗さを堂々と批判しているのは面白い(笑)
 

そして屋敷から衣装から調度品の素晴らしさ
散歩とオペラ用の馬車の使い分けにいたるまでの時代考証も見事
19世紀のブルジョアの暮らしぶりは、こうだという説得力があります
 
アラン・ドロン男色家は似合いませんでしたけど(笑)
 
男は失われた時を求めて、女は未来を求める
そんなスワンとオデットの愛の物語
 
現代でもあてはまるのではないかと思いました
 
 


 
【解説】allcinemaより
 プルーストの『失われた時を求めて』は“意識の流れ”をそのままに小説化する試みとして、ジョイスの『ユリシーズ』に並ぶ壮大な文学的実験で、かなりの大著だが、『スワンの恋』はその一巻。ヴィスコンティなど、多くが映像化を企画しながら、本作まで実現されなかった。非常に複雑な構成の原作を生半可ではシナリオ化できないのである。本作の脚本は演劇界の重鎮P・ブルック他が担当しているが、よりによってシュレンドルフが監督では、ダイジェストを最も恐れるはずの原作のエッセンスを器用に纏めてしまい、文学的閃きは無残に“物語”の下敷きになった感じだ。にしても、才能のないヤツに限って、大古典に簡単に手をつけ、それを愚弄するのはいかなるワケか。