一人息子(1936)

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「人生の悲劇の第一幕は親子になったことから始まっている」

 

小津安二郎初のトーキー長編劇映画

さすがに録音の保存状態はかなり悪ですが(笑)

小津組のセンスの良さには毎回唸る

 

プロローグに流れるのはフォスターの「オ−ルド・ブラック・ジョ−」

生涯を南部の農場で働き続けた黒人奴隷「老僕ジョー」が

この世を去ろうとする時の哀感を歌ったもの

 ふすまに貼られているはジョーン・クロフォードのポスター

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信州(長野県)の製糸工場の、紡績婦として働きながら

一人息子の良助を育てているおつね

ある日担任の大久保先生から

良助が東京の中学校に進学したがっている、と知らされます

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良助の強い思いにおつねは進学を許し

学費のために家と土地を売り、工場で住み込みで働くようになります

それから13年、おつねは年で紡績婦を引退したものの

掃除婦として働いていました

そして就職した息子に会うため上京します

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息子は満面の笑顔で迎えてくれましたが

住んでいたのは貧困街にある立派とは言えない一軒家で

結婚して、赤ん坊までいます

しかも役所を辞めて夜学の教師をしているといいます

 

恩師の(教師を退職して上京した)大久保先生に会いに行くと

1食5銭の寂れたとんかつ屋をやっている

息子の将来を暗示するかのような先生の姿に

おつねのショックは隠せない

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それでも良助は母親孝行するのに必死

上野からのタクシー代でお金を使い果たしてしまったのでしょう

職場の同僚から利子付きで10円借り

おつねに美味しいものを食べさせたり

田舎にはない映画館で外国映画を見せるのです

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だけど「これがトーキーだよ」と説明する息子の横でおつねは爆睡(笑)

 

この映画「未完成交響楽」(1933) という

シューベルトをモチーフにしたオーストリア映画なのですが

これがまた、ダメダメ男というブラック・ユーモア(笑)

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一人息子の立身出世だけを楽しみに生きてきたおつね

その夜、良助の不甲斐なさを責め涙してしまう

なんのために学問を習わせたのか

息子には自分と同じ労働者階級の道だけは歩んでほしくなかった

 

それを聞いた良助の妻杉子は、翌日自分の着物を売り

そのお金を「おかあさんをどこかに連れてって」と良助に渡します

しかし隣に住む男の子が馬に蹴られ大けがをしてしまい

良助は男の子の母親に、杉子からもらったなけなしのお金を与えるのでした

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母親の期待とは違ったかもしれないけど

こんなに好い息子と嫁はいないよ(笑)

 

たとえ貧しい生活でも、息子の人情を知ったおつねは

静かに田舎に戻る決意をします

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なにひとつ母親の期待に応えることができなかった

そんな自分を見られたくなかった

その時、息子のつくり笑いが消え

苛立ちを表すかのように投げ出された帽子

 

次の瞬間、良助は棚の上に置かれている紙に気付きます

中には紙幣(10円札と思われる)が二枚挟んでありました

 

「これで まごに なにか かって やって ください」

ひらがなだけの拙い文字の母からの手紙

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そして再び信州で住み込みの工場の掃除をするおつねの姿

おつねは一緒に働く掃除のおばさんに

笑顔で息子の自慢話をするのでした

 

現在でも我が子に過剰な期待して

幼い頃から塾に習い事と、わんさかお金をかける親は大勢いますが

親の思い通りに育つ子どもはなかなかいません(笑)

 

ラスト、雑巾で床を拭くだけの母親の丸い背中に

深い哀愁を感じられずにいられない傑作でしょう

 

 

【解説】ウィキペディアより

『一人息子』(ひとりむすこ)は、1936年(昭和11年)公開、小津安二郎監督による日本の長篇劇映画である。

                 デビュー以来、サイレント映画を撮り続けた同監督の劇映画では初のトーキー作品である。松竹蒲田撮影所が同社のトーキー第1作『マダムと女房』(1931年)以来採用していた「土橋式トーキー」ではなく、小津番のカメラマン茂原英雄が開発した「茂原式トーキー」を採用した[2]。茂原は撮影を杉本正次郎に任せ、初めて録音技師に回った。 小津安二郎が「ゼームス・槇」名義で書き下ろしたストーリーを池田忠雄と荒田正男が脚色した。録音技師を務めた茂原英雄に代わり、撮影技師を務めた杉本正次郎は、1933年(昭和8年)に小津の監督作『出来ごころ』を手がけた技師である[5]。松竹蒲田撮影所では、1931年(昭和6年)の日本初の本格トーキー劇映画『マダムと女房』(監督五所平之助)を発表以来、土橋武夫の「土橋式トーキー」を採用していたが、小津はその後もサイレント映画を発表し続け、本作で本格的にトーキーと取り組むことになった。茂原の助手として小津組に参加してきたのちの小津番カメラマン厚田雄春は、本作ではチーフ撮影助手を務め

本作は、1936年(昭和11年)115日に蒲田撮影所が閉鎖されて大船に移転しており、松竹大船撮影所製作とされているが、録音助手を務めた、茂原の弟子でのちの録音技師・熊谷宏の回想によれば、実際は、小津組以外だれもいない蒲田撮影所で撮影が行われたという。茂原がトーキーの新システム「SMSシステム」(スーパー・モハラ・サウンド・システム)、通称「茂原式トーキー」の開発を蒲田の花街に事務所を構えて行っていたからで、茂原の妻であり本作に主演した飯田蝶子をはじめ、出演した女優の坪内美子、吉川満子らが夜食の炊き出しを行い、アットホームな撮影現場であったという。事実上、小津にとっても、松竹キネマにとっても、最後の「蒲田撮影所作品」となった。

本作の上映用ポジプリントは、東京国立近代美術館フィルムセンター7,383.12フィート(2,250.4メートル)の35mmフィルム、2,968.11フィート(904.7メートル)の16mmフィルムの2ヴァージョン、いずれも82分の尺長のものを所蔵している