「太平洋戦争と姫ゆり部隊」(1962新東宝)に続いて
舛田利雄監督の日活ニューアクション世代による三度目の映画化
みんなを引っ張っていく係の吉永小百合
浜川智子(浜かおる)、後藤ルミ
1968年、ゴーゴークラブで踊る若者たち
ひとりの青年(渡哲也)のインタビューに彼らは16歳や21歳だと答えます
青年は昭和18年秋の沖縄の師範学校女子部の運動会を思い出していました
いきなり下肢をむき出しの提灯ブルマ姿で徒競走やダンスという
女学生たちの健康的(で無駄にエロティシズム)な姿(笑)
男子部の学生たちは運動会を見たいがために
姉の与那嶺和子の応援に来た中学生男子をまるめこんで運動会に紛れ込み
男子部のひとり西里(浜田光夫)は与那嶺和子の従弟だと嘘をつきます
しかし目の前にいたのは初対面の与那嶺和子(吉永小百合)でした
それからふたりは意識しあうようになります
今となっては誰が見てもわかる、沖縄らしさに欠ける言葉に風習
沖縄県民に見えない風貌(返還は公開の二年後)
リアリティさに欠ける生ぬるいエピソード
舛田利雄のなかでは評判はあまりよくないようですが
敵兵はひとりも姿を現さず、ひたすら見えない敵と戦うという演出は
いかに相手が巨人であるかということが伝わりますし
沖縄県民の4人に1人(約20万人)が命を落とした
最悪の地上戦を描いた貴重な映画のひとつに違いないでしょう
米軍上陸に備え、竹槍での軍事教練を受ける女学生たち
本土からやって来た教育係の軍人は
アメリカ兵はおまえたちを素っ裸にして戦車の一番前に縛り付け
日本兵が攻撃できないようにするのだから
そうならないよう本気で訓練しろと脅します
昭和19年、和子が教育実習をした子どもたちが
教師をしている和子の母親の引率で九州に集団疎開することになります
しかし家族が子どもたちの出発を見送ることを軍部は許しませんでした
数日後島民は、子どもたちを乗せた船が敵の発射した魚雷により
沈没したと知らされます(対馬丸事件)
昭和20年、すでに沖縄本島に米軍は上陸していて
女学生たちはは卒業式を目前にして野戦病院の看護師として従軍させられます
戦火の拡大で運び込まれる兵士、空爆により戦死していく肉親や同級生たち
そんな中でも、形だけの卒業式を行おうと提案してくれた校長先生
卒業証書は戦火で焼かれ、答辞だけのささやかなものでしたが
娘たちは歓喜し、涙するのでした
戦線の後退、首里城の陥落が間近になり
野戦病院も戦線にあわせて洞窟に移転することになりました
歩けない患者の中には同級生のトミ(和泉雅子)もいましたが
後で軍のトラックで運ぶと言われ和子らは先に出発します
しかし残された患者には青酸カリ入りの牛乳が配られていました
トミは軍人しかもらえない牛乳を欲しいと望み
トミの気持ちを察した兵士は牛乳を分け与えます
5月の沖縄は雨期なのですね、雨と泥の中移動する軍人と娘たち
戦況が膠着(こうちゃく)したという知らせが入り
女学生たちは川遊びをして、泥を落とし髪をとかします
ところが日本海軍が動いたというのは娘たちを勇気付けようとした嘘で
制空権は依然米軍にあり、機銃掃射による攻撃で
のどかな風景が一瞬にして血の海になる
娘たちは「ガマ」と呼ばれる天然の壕に逃げ込みます
6月18日、日本軍に抵抗する力は残っておらず
元女子部の学生に突然の解散命令が出されます
移動の指令を女学生に届ける直前、浜辺で戦死してしまう校長先生
それを知った女学生たちは校長先生の遺体を回収したいと訴え(ばかだ)
敵機からの掃射のなかを走り抜けようと
道案内した兵士までが爆撃を受け戦死してしまう
6月19日、先生の引率により班ごとに別れ、ガマを脱出することにした学生たち
しかし敵の銃乱射や、毒ガス弾と思われる攻撃により仲間は殺され
(沖縄戦で毒ガス弾が使われた記録はないものの)
生き残った娘たちは、日本軍が残して行った手りゅう弾を使って
自決する決意をするのです
沖縄に上陸したアメリカ兵は、200万人近い兵員が上陸した
「ノルマンディー作戦」以上とも言われ
こんなにも若い女学生の犠牲者が多く出た戦争は
世界史上どこにも例がないそうです
ただ可哀そうだと涙を流すだけでなく
反戦を訴えるだけでなく
彼女たちが死に追いやられたひとつひとつの要因を
今こそ真剣に考えてみるべきなのだと思います
【解説】KINENOTEより
喜劇 ニューヨーク帰りの田舎ッペ」の若井基成と、「恋人をさがそう」の石森史郎が共同でシナリオを執筆し、「昭和のいのち」の舛田利雄が監督した戦争秘話。撮影は「関東刑務所帰り」の横山実