軽蔑(1963)

 
私のブログの看板映画がこの作品
CONTEMPT」は「LE MEPRIS」のアメリカ版タイトル
 
恵比寿ガーデンシネマでデジタル・リマスター版が
公開されているので見てまいりました
劇場で鑑賞できたとは感慨深いです
 
 
以前見た時は、難解に感じたのですけれど
今見ると、多くの経験もしましたし、ネットの情報もありますし
男女の関係として、非常にわかりやすいものでした
(女性の立場から見た場合かも知れませんが)
 
 
冒頭の「あたしのくるぶし好き?」「胸と乳首はどっちが好き?」
と強烈に愛を囁きあうシーンは、映画の完成後にスポンサーサイトから
BBのヌードが少ないと言われ、後から追加撮影されたものなのだそうです
なのでこのシーンはBBのプロモーションビデオだと割り切って
作品から切り離した方が、私はいいと思います
 
 
 
結婚生活に悩んでいたころの自己投影作品
監督に20回NG出されたBBが「どこが悪いのか」と質問したら
アンナ・カリーナと歩き方が違う」と答えたそうな(笑)
 
 
作中の映画「オデュッセイア」とは
2001年宇宙の旅」(1968)のタイトル「2001: A Space Odyssey」にも
ありますが、長期の放浪や、長い冒険旅行を意味するそうです
 
イタカ島の王であるオデュッセウス(英語読みユリシーズ)が
トロイに息子を取り戻しに行き、「トロイの木馬」で勝利を収めます
しかしその後もいろいろな冒険をして、帰るのに10年もかかってしまいました
その理由は妻のペネロペと不仲のため、不幸な生活だったから
 
妻は美しく、求婚者が何人も現れました
しかしユリシーズは妻の貞淑を知り、求婚者に親切にまでします
その瞬間から妻はユリシーズを軽蔑します
 
愛を失ったとやっと気づくユリシーズ
そして愛を取り戻すため、求婚者を殺すしかないと思うのです
 
それがドイツ人監督フリッツ・ラングサイレント映画の巨匠、本物)の
オデュッセイア」の解釈
 
 
 
それと並行してカミーユ(元タイプライター)(ブリジット・バルドー)と
舞台脚本家のポール(ミシェル・ピッコリ)の夫婦の愛憎が描かれていきます
 
 
アメリカ人のプロデューサーのジェレミー(ジャック・パランス)は
ひと目見てカミーユの美貌に惚れこみます
そして「自宅に来ないか」と誘うのです
 
ポールは自分はタクシーで行くから、先にふたりで行けという
言葉も通じないスケベ顔のアメリカ人男と
そのうえ、30分も遅れてやってくる
そのうえ、遅れてきた理由にわかり切った嘘をつく
そのうえ、ジェレミーの秘書兼通訳であるフランチェスカを口説いている
 
自宅に帰ってもポールはそう
料理に文句をつける
母からの電話に嘘をつく
カツラが似合わないと言う
頬を打つ
カリブへの誘いに「カミーユ次第」と答える
 
 
なのに妻が不機嫌な理由に納得いかない
ベッドを別にすると言っても
もう愛していないと言っても
 
 
 
それはロケ現場のカリブに行っても同じでした
またもやポールはカミーユをジェレミーとふたりきりにするのです
そして、ポールが見ていると知って、ジェレミーとキスするカミーユ
 
カミーユがジェレミーとキスしたのも、去ったのも
ジェレミーを愛していたからではないでしょう
ただ、生きていくため
 
 
 
BBの姿は妖艶なれど、それを映すカメラは冷たい
妻は夫を軽蔑するという「あなた、男じゃないのよ」と
その妻を見る夫の目線はあまりにも冷酷で、そして残酷なのです
 
そしてカミーユとジェレミーという、言葉の通じないふたりは
無残な死を遂げることになります
情熱の赤が復讐の、死の赤に変わるとき
 
 
恋愛映画は多くあれど、ここまでわかりあえない男と女を
うまく描いた映画はそう多くはないでしょう
そういう視点からも傑作、もちろん私の「お気に入り」
 
ただこの作品をBBのお尻を見るだけ的な映画という
レビューばかりが目立っていたのは、正直残念でした
(そういう目的で映画を鑑賞すること自体は否定しません 笑)
 

 
【解説】allcinemaより
劇作家のポールのもとに、辣腕プロデューサーのプロコシュがシナリオの書き直しを依頼しに来た。フリッツ・ラング(本人)が監督する新作『オデュッセイア』があまりにも難解すぎるからだ。打ち合わせの後、プロコシュの自宅へ招かれたポールと妻カミーユだったが、後からやって来たポールにカミーユの態度は冷たい。彼女が何に対して怒っているのか、二人の仲は自宅へ戻っても変わらない。あんなに愛し合ったのに、ベッドを共にする事も拒絶するカミーユ。やがて、映画のロケのためにカプリ島に出かけた際、ポールはカミーユとプロコシュがキスしている光景を目にする……。A・モラヴィアの原作を基に、当時、妻アンナ・カリーナとの問題で悩んでいたゴダールが自己の苦悩を投影させ、いくら愛しても愛されない事の不可解を描いた作品。同時に、斜陽化の激しいヨーロッパの映画産業を舞台にする事でハリウッド化への警鐘と不安も内包している。その二つの事象に対するF・ラングの言葉が、的確かつ辛辣だ